まだ昭和が終わるなどとは思ってもいなかった昭和50年代末、学生だった私は休みなると旅に出かけていた。アルバイトで貯めた金は旅に出かけるたびに消えていったものだ。
当時、何故か東北に心惹かれていた私は、上野を出発する夜行列車に乗って行くのが好きだった。まだ、東北新幹線も大宮始発の頃で、上野からはむつや八甲田、十和田などの夜行急行が次々と発車していった時代だ。当然、金のない私はこういった夜行の列車急行を利用するのだが、学割で買った東北周遊券を使って期間いっぱい旅を続けるのである。
夜行列車が郡山駅に着くと駅弁売りがやって来る。釜飯と言えば信越線の横川が有名だが、郡山でも釜飯を売っていて、私は旅の行き帰りに必ず買うのを常としていた。釜飯を食べると東北に入るという感じがするし、帰りに食べると首都圏に帰ってきたとういう感じがするのである。まあ、私の中のひとつの儀式みたいなものであろうか。
列車は一晩中走り続ける。三沢を過ぎたあたりから連絡線で北海道へ渡る人向けに乗船名簿の案内をする車内放送が幾度も流される。そして朝の9時頃に終着駅青森に到着する。青函連絡船がいまだ健在であるにもかかわらず青森駅は閑散としていた。降車ホームには何処へ行くのかディーゼル列車が停車していたが、乗り込む人もないまま時間が経過していくのみだ。
恐山に向かう途中、昔テレビかなにかで見たレールバスが見たくなり、ちょっと寄り道をした。南部縦貫鉄道という今では無くなってしまった会社が運行していた小さな鉄道バスが国鉄の駅から見えた。当時でも結構古そうな車両で揺れながら一生懸命走っていた姿は印象的だった。
どうして野辺地駅で降りたのかは覚えていない。たぶん大畑線の列車を待つ時間、駅前でも散歩していたのだろうと思う。ただ、夏の強い日差しの中、楽しそうな子供の声だけが印象に残っている。
野辺地駅にはキハ22が待っていた。茜色のなんともない列車であるが、窓を開けて走る車内には陸奥湾からの気持ちのよい風が吹き込んできて、心を清清しくしてくれるような、そんな列車だ。都会の電車は紫外線防止の着色ガラスの窓が閉まりぱなしで、息苦しく感じてしまうのはなぜ?
秋田に着いた日は雨だった。今は秋田新幹線が通じ、駅も瀟洒なものに変わったが、当時は地方都市の典型的な駅だった。秋田には泊まるためだけに寄ったのだが、ふらりと入った定食屋のトンカツが妙に美味かったのを覚えている。
杜の都仙台には何度も行ったが、夏の仙台は特に好きだった。広瀬川は青空の下、青葉を映していつもきらきら輝いていた。
青葉通りにあるスペイン風の喫茶店で珈琲を飲みながら、ぼんやりと道行く人を眺めるのが、仙台での私の過ごし方だった。
あの頃の東北には、まだ客車列車が走っていた。仙台から山形に行く仙山線にもED78が牽く客車列車が多くの人を乗せて行き交っていた。木製の車内は昔の映画にでてくるシーンを髣髴とさせるほど魅力的だったが、当時はそんなことは少しも感じでいなかった。ただ、なぜかほっとした気持ちになれたことは確かだった。
有名な観光地である山寺にある駅は、昔ながらの雰囲気を持つ。夏の観光シーズンにもかかわらず、列車が到着したとき以外は、駅前は誰もいない。
見上げると山肌に幾つもの堂宇が見下ろしていた。周囲に木霊す蝉の声が、これから登ろうとする私に幾千もの階段の厳しさを思い起こさせてくれるのだった。
朝早く仙台のホテルを出た私は、三陸に向かうため快速むろねに乗った。少し前までは急行だったこの列車は、少ない乗客を乗せ一路太平洋を目指して走るのだった。当時の私は、電車とか気動車だとかには無関心で、旅すること自体に意味を見出そうとしていた若者だった。だから、かなりの数の路線、列車に乗ったはずだか、列車の写真自体はあまり残っていない。今思うともったいない気がするが、まあ、仕方がない。
盛を尋ねたのは、ここを経由して釜石を訪ねるためだった。宮澤賢治の銀河鉄道の夜をモチーフにした駅名などで話題を集めていた三陸鉄道に乗り換え釜石を目指す。やたらトンネルの多い鉄道だったが、観光客や地元民が結構乗っていて賑やかだった。今でも元気で走っているのだろうか。
鉄鋼の街、ラグビーの街、釜石。このころ新日鉄釜石ラグビー部は最強だった。正月の日本選手権はいつも赤いジャージが国立競技場を縦横無尽に走り回っていた。
彼等が最後の輝きを見せているころ、私はこの街を訪れたのだ。
この街に美味い珈琲を出す店があると何かの本に書いていた。蔵造りのその店は、街の片隅にひっそりと佇んでいた。やはり美味かった。こんなところに珈琲を飲むためだけに来る私も私だが、当時はそういうことも価値ある生き方だと思っていた。
釜石の象徴である高炉は、この時、まだ赤々と燃えていたが、休止の噂も聞こえていたこの頃、すでに街は寂しさを漂わせていたような気がした。
そして、朝早く東京へ戻る私は、花巻行きの列車に乗るため、誰もいない商店街を抜けひとり駅へ歩いていくのだった。